October 2017  |  01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31

057 レオポルド水道・続

 以前紹介したレオポルド水道のチステルノーネとチステルニーノ(029の記事を参照)の中に入る機会に恵まれたので、今回はその様子をお伝えしようと重います。

まずはリヴォルノの街中にあるチステルノーネから。


入ってすぐの半円状のホール。
奥の壁が正面の壁です。


上の写真の手前の壁面。
弧を描いた壁に一定間隔にアーチが設けられていて、その内の3つが他の部屋への出入り口になっています。


半クーポラの天井の装飾が収束する部分のデザインが印象的です。



浄水槽のある空間はクーポラと柱の立ち並ぶイスラムチックな、宗教的な空間でした。

この日は生憎どんよりとした曇り空だったのですが、天気の良い日に訪れると光の水面による反射ですごい奇麗だそうです。
でも、この薄暗さも雰囲気があってそう悪くないと思います。


浄水槽の淵を一周する通路。


浄水過程の最終段階の箇所。
ここだけクーポラに天窓が設けられていて、これはもういかにも教会といった感じです。


水深は一番深いところで確か4,5メートルあるそうです。

5年に一度水槽の掃除をする為に水を抜くそうですが、この内部スペースは構造も塗装も湿度に負けることなくオリジナルのままとのことです。



淨水槽の上の階。
このドーム群はクーポラを上から見たものです。


天窓のあった上にはさらに天窓が設けられています。


天窓のないその他のクーポラの中心部には穴があいていて、上の写真のような装飾のある蓋がされています。



外から見える半分に切られたクーポラの下はちょっとしたテラスのようになっています。
建設同時のここからの眺めはどうだったのだろうかと思ってみたり。
(リヴォルノは第2次世界大戦時の空爆で莫大な被害を受けているのです)


次は、ここから車で15分くらいの郊外にあるチステルニーノへ。


ここは現在機能してないので、水は抜かれています。


上の写真の右側から見たところ。
一部分だけ象徴的に水が残されています。
奥に向かって段階的に水が浄化されていくようになっていたそうです。


天井部分。
チステルノーネと同じくクーポラの中心部には装飾付の蓋がされていたのですが、近年あった工事の際に照明が埋め込まれています。

この近年あった工事、というのがEUの補助金による修復兼メディアセンターとしての再利用の為の改築だったのですが、消防法や安全性の問題から許可が下りず、全く使われることのない状態が続いているという、残念なことになっているそうです。

内部を見学するのにもアポイントを取る必要があり、その際のみ扉が開かれます。



それにしても、イタリアの歴史的建造物の修復って大抵EUの補助金や寄付金によって賄われている気がします。

つい最近、ナポリのポンペイ遺跡のメンテナンス状況のひどさとか、コロッセオからスポンサーがおりてしまって更なる修復の資金繰りに困っているとかいうニュースが流れていましたが、イタリアの税金は一体どこに消えてしまっているのだろうと遺憾に思います。

イタリアに来たばかりの頃は、イタリアは税金が高いくせにインフラが遅れているのは歴史的な建造物や美術品が多くてその修復にお金が掛かるからだと思っていたんですけどね・・・。

そもそも、人口が日本の半分なのにイタリアの国会議員数900人って時点で何か間違っていると思います。

・・・イタリアの政治に関しては話したいことが沢山あるのですが、キリがないのでやめておきます。




JUGEMテーマ:イタリア








056 フィレンツェ現代建築案内01


先日、日本から来た同業者の方にお会いする機会があったのですが、その際フィレンツェで見るべき現代建築は何か、という質問を受けました。

フィレンツェは世界遺産の街であり、時間はルネッサンス時代に止まったまま。
当然ながら答えに窮してしまい、それでもいくつかの新しい建築物を記憶の片隅からひねりだし、なんとか返事をした訳ですが、またそういう質問をうける機会がないわけでもないので、ちょっと調べてリストアップしてみました。


1. ノヴォリ地区
Via Alessandro Guidoni

フィアットの工場跡の広大な敷地の再開発計画。
フィレンツェ大学の新キャンパスと店舗、集合住宅が混在しています。

フィレンツェの空港から近く、中心部へ向かう際に必ず通る道の右手にあります。


その建築群の脇には公園と、70年代に設計され2000年に入ってから工事が始まったといういわくつきの新裁判所があります。


(author:freepenguin@wikipedia)

明らかに70年・80年代の様式で現代建築とは言えないかもしれません・・・。
面積80万平方メートル、一番高い部分で高さ72メートルと無駄に大きいです。



その右手にはジョルジョ・グラッシ (Giorgio Grassi) の設計によるフィレンツェ貯蓄銀行 (Cassa si risparmio di Firenze) の新本部。
下の画像は工事中のものですが、実際は完成済みです。


(author:freepenguin@wikipedia)


2. パルマに拠点を置くフィレンツェ大学教授のパオロ・ゼルマーニ (Paolo Zermani) の『窓の家』(Casa della finestra)
Piazza Tasso

修道院跡を公営住宅+展示スペースに改築したもの。



3. ムラーテの修道院跡 (Ex-Monastero dell Murate) の再開発計画。
Via dell'Agnolo / Via Ghibellina

1400年代に建設された修道院跡を、公営住宅とアートの為のスペースに改築したもの。
元々は修道院だったのですが、1883年から1985年にかけては刑務所として利用されていたので、頑丈な独房の扉が残っていたり。
プロジェクト自体は市役所の建築家によって進められたのですが、ガイドラインはレンゾ・ピアノ (Renzo Piano) によるもののようです。







4.フィレンツェ大学学生寮
via Maragliano


(author:Sailko@wikipedia)

5.建築事務所アルケア (Studio Archea) による集合住宅、
via Panciatichi 51, Rifredi

宿泊施設を改築したもので、日本の分譲マンションのようは売り出し方をしていて面白いです。
Le logge di Firenze
サイトに掲載されている図面をみる限り、改築の仕方がちょっと強引な感じもします。




6.建築事務所イポストゥーディオ (Ipostudio) によるカレッジ病院の新エントランス。
昨日病院に行く機会がありまして、そこで初めてこのプロジェクトの存在を知りました。
後日写真を掲載しようと思います。




他には頓挫してしまった(?)磯崎新のウッフィッイ美術館入り口とか、ジャン・ヌーベルのホテル兼レジデンスとか、これから建てられるはずのノーマン・フォスターの駅とかもあったりします。




JUGEMテーマ:建築

034 干草小屋

先日の日曜日に友人の家でのランチに招かれました。

その友人は、最近フィレンツェ中心部のワンルームのアパートから、郊外の庭付き住居へと引っ越したのですが、その場所は並列した建物が次第に増幅していって最終的に広場を形成するようになるという、昔の農作地の典型的な建物のひとつでした。


広場には井戸もあり。


もともとは、1階が家畜小屋、2階が干草小屋、一番上の小さい穴の空いた部分が鳩小屋だったものを改装したのだそうです。


2階の干草小屋だった部分を室内から見たところ。
当然ながら、ガラスは後で設置されたものです。

干草小屋のことをイタリア語でフィエニーレ (Fienile) と言うのですが、
以前からこのフィエニーレの、風を通す為の穴を残すレンガの積み方に興味を持っていて、この友人の家に招かれたのをきっかけにリサーチを始めてみました。

目的地は、フィエニーレの多く立ち並ぶルッカの郊外。


ルッカでは、ほとんどがこの平たいレンガを水平に寝かした層と斜めに立てて積んだ層を交互に繰り返すパターンでした。







まれにこのパターンも。

これも平たいレンガを使って、三角形の繰り返し。



前にヴィアレッジョの近くで、こういうものも見かけましたが、これがフィエニーレだったかどうかは不明です。


フィエニーレを求めて、以前ノットリーニ水道の記事を書いたグアモにもたどり着きました。


そこそこ写真も撮れたし、折角ここまで来たのだからまた水源を見に行こうということになり、散策を始めたのですが、以前紹介したポイントは始発点ではないことが判明しました。

実はテンピエットから先も水道は続いていて、途中からイタリア登山クラブの散策路になっていました。





最終的にはこういう詩的な風景に出くわしました。
この水流が水道なのではなくて、この川底の下に水道管が設置されています。

一滴の水も逃さない為にか、あちらこちらに溝が掘られている為ここ一帯全てに完璧に人の手が入っていて、まるでランド・アートの作品を見ているかのようでした。

この写真を撮った時点で時間は20時半。
水道はまだまだ先に続いているようでしたが、時間が遅かったので諦めて引き返しました。

また別の機会にこの場所を訪れようと思います。

ちなみにこの場所は、この水流にかかっている橋に真鍮の文字が刻まれていたことから、パローレ・ドーロ (Parole d'Oro = 黄金の言葉) と呼ばれているのだそうです。





JUGEMテーマ:建築

031 アンフィテアトロ広場

前回紹介したルッカの街には、アンフィテアトロ広場 (piazza dell'anfiteatro)と呼ばれる楕円形の唯一無二の広場があります。



アンフィテアトロ (anfiteatro) とはローマ時代の円形闘技場のこと。

アンフィ (anfi) は、『両側の、2倍の』を意味し、基本的に演劇などが行われたテアトロ (teatro) が半円形の図面をしているのに対し、線対称にその反対側もある楕円形をしているので、アンフィ・テアトロと言うのです。

ルッカのアンフィテアトロ広場は、中世に入ってから広場として使われるようになり、当初は談話の場所という意味でパルラッショ (Parlascio, parlare=話すという動詞からくる) と呼ばれていたそうです。

この広場も時代を追うごとに、フィレンツェの円形闘技場跡のように新しい建築物で埋めつくされ、塩や火薬の倉庫、牢獄として使われていたのを、1800年代に今の形に整備し直したのが、前回のノットリーニ水道を設計したロレンツォ・ノットリーニです。

ノットリーニは、アリーナ部分にあった建築物を取り除き、さらに円形闘技場跡をなぞる様に、アンフィテアトロ通り (via anfiteatro) をぐるっと一周させ、新しい広場に市場としての機能を与えました。

1900年代半ばに市場が移転され、現在は店舗や飲食店が立ち並んでいます。





現在の広場は、かつてのアリーナのレベルから3メートルほど高くなっていて、4つある広場への門のうち、一番低い門だけがオリジナルのままだそうです。(下の写真)






ちなみに、イタリア人建築家のファヴィオ・ノヴェンブレ (Fabio Novembre) が、イタリア各地の広場をモチーフにしてデザインしたトレイ”100 piazze”のひとつに、このルッカのアンフィテアトロ広場が選ばれています。





JUGEMテーマ:イタリア














030 ノットリーニ水道

最近、『イタリア統合150周年』という言葉をよく耳にするようになりました。

イタリアが歴史のある国であるのは言うまでもないことですが、多くの都市国家に分裂していたイタリアが統一され現在の形になったのは、(ローマ時代や、ナポレオンによる統一時代は別にして)1861年のこと。

実はアメリカ合衆国よりも若い国なんですよね。

数十キロ離れただけで、全く言葉や郷土料理が違ったり、隣町同士仲が悪かったり、サッカーチームのサポーター同士が激しい衝突をする理由が分かる気がします。



それはさておき、前回に引き続き今回も水道の話をしようと思います。

今回は、フィレンツェから西へ電車で1時間半弱行ったところにあるエトルリア起源の街、ルッカ  (Lucca) の旧水道です。

ルッカの旧水道はプロジェクトを担当した建築家ロレンツォ・ノットリーニ (Lorenzo Nottolini)の名前を取って、ノットリーニ水道 (Acquedotto Nottolini)と呼ばれています。

工事は1823年に開始され、完成したのは1851年。


ルッカの街は360度壁で囲まれていて、その上を自転車や徒歩で一周することができます。



その城壁の外側にはかなり広い緑のゾーンがあり、その周りを自動車道がぐるりとまた一周しています。



その壁の外周に一定間隔でスペード型のバスティオーネ(bastione)と呼ばれる堡塁が設置されています。(上の写真の左奥に見えるのがそれ)

ノットリーニ水道はルッカの町の南東にあるグアモ (Guamo) という集落の外れから始まり、バスティオーネのひとつに到達するようになっています。





ルッカの駅のすぐ裏にある、サン・コンコルディオのテンピエット (Tempietto di San Concordio)。ドーリア式新古典主義建築。
水道橋はここで終了し、水道自体は地下をってバスティオーネへ到達します。



ファシストの時代、1928年から1932年にかけてのフィレンツェ・ピサ間の高速道路建設のため、水道橋のアーチひとつ分が撤去され、より強固な構造体に挿げ替えられ、さらに1962年には道路拡張の為新たに5本の柱が撤去され、現在に至ります。


フィレンツェ・ヴィアレッジョを結ぶ高速道路A11からは上のような景色が見られます。唯一この部分だけが崩壊しかかっていて、補強されているのがわかります。


グアモの集落では一般道が水道橋のアーチの下を通っています。


車を降りて少し歩道橋の脇をしばらく歩きます。


グアモのテンピエット (Tempietto di Guamo) と呼ばれる、ノットリーニ水道の始発点が見えてきます。


テンピエットを正面からみたところ。
こちらも同じくドーリア式新古典主義建築です。






JUGEMテーマ:建築

029 レオポルド水道

週末を利用して、ピサよりさらに南にあるリヴォルノという港街の旧水道をたどってみました。

大きな地図で見る

リヴォルノは、人口16万人の中世以降に形成された比較的新しい都市です。

今回紹介する水道は、1700年代の急激な人口増加により新しい水道が必要になって建設され、1816年から1912年 の間に利用された新しいものです。

このリヴォルノの水道は、一番始めにこの計画に着手したトスカーナ大公レオポルド2世の名から、レオポルド水道、もしくはその水源地からコローニョレの水道と呼ばれているそうです。

レオポルド水道は、複数の建築家の指揮を経て完成されますが、中でも大きな貢献をしたのがリヴォルノの市役所の建築家であった、パスクアーレ・ポッチャンティ (Pasquale Poccianti) です。

彼が設計した建築物の一つがリヴォルノの共和国広場から見えるチステルニーノ・ディ・チッタ(街の小貯水槽)と呼ばれるこの建物、レオポルド水道の最終地点です。


Cisternino di città


共和国広場にあるフェルディナンド3世の像。

フェルディナンド3世はレオポルド2世の後を継いで大公になった後、この水道の事業を引き継いでいます。

手を差し伸ばした先はレオポルド水道の水源を指しており、水道はこの世界一大きい橋状の広場の下を通って写真右手にあるチステルニーノ・ディ・チッタへと流れます。


この像の指す先に暫く歩いていくと、旧動物園の大きな公園の角にチステルノーネ(大貯水槽)と呼ばれる新古典主義の建築物が現れます。
これも、パスクアーレ・ポッチャンティによるもので、現在も機能しています。


Cisternone

この半分に切断されたようにクーポラはローマのパンテオンにインスピレーションを得たもの。

たしかに、クーポラ内の装飾はパンテオンそのものですが、僕が一目見て頭に浮かんだのは、フォロ・ロマーノのマクセンティウスのバジリカ(Basilica di Massenzio) でした。



さて、ここからは車に乗って移動です。
先ほどの建物の前の道路を左に駅方面へと進み、さらに線路を超え郊外向かって走る事数十分。

まわりに建物の陰が見えなくなる頃、これまた、パスクアーレ・ポッチャンティによるピアン・ディ・ロータのチステルニーノが出現します。


Cisternino Piano di Rota

これは、貯水槽と浄水槽を兼ねたもののようです。
この写真で言うと、向かって左がリヴォルノ方面、右が水源方面です。

2年前に修復が済んだばかりなのですが、歴史的建築物の為に全く手を加える事ができず、柵や手すりなどの安全性の問題から中に入って見学することは残念ながらできません。

中はこんな感じです。

author : Etienne(Li)@wikipedia

ちょっとリヴォルノ方面へ歩いてみると急な斜面があり、そこを下りると水道橋が出現。


奥に行くとまた上り坂になり水道は地中に潜ってしまいます。

ちなみに、この写真の周囲にはゴミやペットボトルが散乱していて、注射器まで落ちていて、さらに歩いてみるとホームレスの住処にようなところがあり(こんな片田舎に…!)、変な臭いもするのでさっさと折り返しました。

二つ上の写真から水源地に向かっても歩いてみたのですが、そちらはジプシー達の住む地帯になっていて、そこもゴミが酷かったです。

周囲の状況を考えると、修復前のチステルノーネがどんな酷い状態だったのか、想像できます。


ここで、軽くお昼を取ってまた車に乗って移動。

20分くらいすると、また別の水道橋が現れます。


ふと目を左に向けると、そこにはトスカーナの典型的な丘陵と糸杉の景色が。
黄色いのはもちろん菜の花です。


ここから、車で南下する事さらに数十分。
コローニョレの町を過ぎて、さらに少し行ったところに山道の入り口があるので車を停めて、そこからは徒歩で。

10分弱歩くと、少し開けたところがあり、そこにレオパルド水道の水源地がありました。



一枚上の写真の左奥に見える建造物。


2枚上の写真の右側に見える家の形の3つ並んで建っている建造物のひとつ。


上の写真を背に水道の上を歩いて下っているところ。


しばらくすると何かが見えてきます。


下りきって正面からみたところ。
おそらく水道の分岐点。

ここは少し平になっていて、その先に数メートルの段差があります。


段差の先。


他にも1カ所水源地があるようで、そこにも行ってみました。
少し危険な箇所もあり、CAI (イタリア登山クラブ) の散策路にもなっているようでした。

イチジクが根を張ったせいで破損の見られる場所もありましたが、200年近くも前に作られたものが未だに機能を失わずにいるというのは凄いものです。

古典様式のものは反自然的なものだと思っていたのですが、こうして見てみると自然にしっかりとけ込むものなんですね。

水源地は何だかラピュタの空中都市にでも到着したかのような気分でした。





JUGEMテーマ:建築






022 アレッツォ

先週末は久しぶりのすかっとした青空で、遠出をしたい気持ちを抑えきれず、フィレンツェから電車で南東へ約1時間の距離にある、アレッツォ (Arezzo) の街へ行ってきました。


どれくらい良い天気だったかというと、、、

これくらいです。

写真は、アレッツォのドゥオーモ。
アレッツォの街は、丘の南西方面に向いた傾斜の上に立つ坂の町で、このドゥオーモは街の一番高い場所に立っています。


アレッツォの駅を出てしばらく歩くと、すぐに坂が始まります。


毎月一回目の週末はアンティーク市が開かれ、この日も道の両脇に骨董品が所狭しと並んでいました。

アレッツォの町の起源はローマ時代よりも更に古いエトルリア時代まで遡るのですが、ここも中世に栄えた街なので、フィレンツェとそう変わらない町並みをしています。

ただ、フィレンツェと違って坂があるので、雰囲気的には同じエトルリア時代の町、ヴォルテッラ (Volterra) に似た印象を受けました。

しかし、車の通らない街を歩くのは平和的でとても気持ちがいいです。

フィレンツェもたいして大きい街ではないのだから、さっさと歩行者天国にすればいいのに、と思います。



サンタ・マリア・デッラ・ピエーヴェ教会 (Chiesa di Santa Maria della Pieve)。

上に行くにしたがってだんだん間隔が狭まって行く3層のアーケードは、典型的なピサ・ルッカ様式のファサードで、13世紀に後付けされたもののようです。

開口部やバラ窓の位置と柱の位置があっていないし、どうりで何だかとってつけたような感じをうけたわけです。

右側の鐘楼は、さらに後になって設置されたようです。


グランデ広場 (piazza Grande)のロッジャ。

このロッジャのある建物は、フィレンツェのウッフィツィ美術館とピッティ宮を結ぶヴァザーリの回廊を設計した建築家 ジョルジョ・ヴァザーリ (Giorgio Vasari) による設計。


グランデ広場 (piazza Grande)。

ひとつ上の写真のポルティコはこの写真の左側にあり、そこから広場全体がゆるく下り坂になっています。


上の写真中央に見える建物の部分拡大。

木製のバルコニー!

これを見て、もしかしたらアレッツォはフィレンツェと違い第2次大戦中に空爆を受けていないのかも知れないと思ったのですが、調べてみたら空爆で街の60%は破壊されたとのことです。

それで、ここまで修復されているのはすごいことです。


僕が街中で唯一見かけた近代建築。
屋根と壁の接合部分のスリットがとても効果的に機能しています。





こういう、凸を逆さにした形の店舗の開口部があちこちに見られました。

この形の開口部ってローマ時代の遺跡などにも見られたような記憶があるのですが、どういった経緯でこの形が生れたのか気になります。



ローマ時代と言えば、円形劇場 (anfiteatro)。

アレッツォにもありますが、ほぼ遺跡状態。
一部は考古学博物館になっています。(写真右奥の建物)


また今度、骨董市が開かれていない日にアレッツォを訪れて、どんな風に街の表情が変わるのか見てみたいみたいと思います。





JUGEMテーマ:イタリア

017 ダニ・カラヴァン

鹿児島県の北部にある霧島アートの森美術館に、国際的に有名な彫刻家の作品があるのはご存知でしょうか?

日本に一時帰国中、イタリア人の友人が鹿児島まで訪ねてきた際に、その作品を見に行ってきました。

その彫刻家の名は、ダニ・カラヴァン (Dani Karavan)。
作品名は、「ベレシート(初めに)」です。



入り口。



通路の奥には、分厚いガラスがはめ込まれていて、空気の澄んだ日には絶景が見られるのではないかと思います。(この日はあいにく靄がかっていました・・・。)




斜め前より。素材はコルテン鋼。





この霧島アートの森美術館の作品によく似たダニ・カラヴァンの作品が、スペインにあるフランスとの国境の小さい街、ポルト・ボウ (Portbou) にあります。

ナチスからの逃亡中に、この地で非業の死を遂げたヴァルター・ベンヤミン (Walter Benjamin)のための記念碑、「パサージュ ヴァルター・ベンジャミンへのオマージュ」(1990年-94年)がそれです。



町の共同墓地前の広場に設けられた作品。



この作品もコルテン鋼で作られています。



霧島の作品と違って、ここは階段状で海に向かって降りていくようになっています。



遠目には最後まで階段が続くようにみえますが、奥にはメッセージの刻まれたガラス板が設置されています。

英語、ドイツ語、スペイン語、カタロニア語で、
「無名の人々を敬うことは、著名な人々のそれよりも難しい。
歴史の構築は無名の人々の記憶に捧げられる」
と書かれているそうです。



入り口の奥(裏?)から下を見たところ。
トンネルの部分は土の下に埋まっているのが分かります。



裏手の丘の上より。



上の写真の脇には、コルテン鋼の正方形の土台の中心に立方体がひとつ。
ベンヤミンや共同墓地に眠る無名な人々の記憶に捧げられた瞑想の「椅子」、だそうです。



同じくコルテン鋼の短い階段。
この「5段の階段」は、海を見晴らす祭壇、だそうです。



共同墓地の中のヴァルター・ベンジャミンの墓。


ベンジャミンが服毒自殺したのは、1940年9月26日。

おそらくまだ海水浴のできたであろう気候の中で最後の時を迎えた彼の目にも、この青い海の色は焼きついていただろうか、などと感傷的な気分にさせられる作品でした。





参考文献:ヨーロッパ建築案内 渕上正幸著 TOTO出版

016 アルド・ロッシ 1

今回は前回のレポートつながりで、イタリアで僕が見たアルド・ロッシ (Aldo Rossi)の建築物のひとつをとりあげようと思います。


その前に、軽く前回の補足を。

福岡のホテルのイル・パラッツォのファサードがルッカやピサの教会に似ていると書きましたが、
実際は、パルマ (Parma) の洗礼堂がモチーフになっているようです。


(author : -= Treviño =- @flickr)

確かに、似てる・・・?

実は、僕はパルマにはまだ行ったことがありません。
ミラノに住んでいた時に、近かったのだから行っておけばよかったのですが、
なぜか興味をそそらなかったんですよね。
サッカー選手の中田がいた時期もあったのに・・・。

さて、そのパルマの東にバルサミコ酢やオペラ歌手の故パバロッティ (Luciano Pavarotti) で有名なモデナ (Modena) という街があるのですが、その街にアルド・ロッシの設計した墓地があります。


大きな地図で見る
この地図中央左の青緑色のL字のものがアルド・ロッシの設計した墓地です。
右の長方形の図面のものは既存の墓地。



この墓地は、住宅地の外れ、街が終わりここから田畑が始まる、といったところにあります。
一見集合住宅にも見えなくもない外見をしていて(写真手前)、奥に見えるアパート群にもすんなり溶け込んでいるように見えました。



イタリアでは、火葬をしないで棺に入れてそのまま、というのが一般的なので、
墓地はかなり大きく、昔から街の中にある墓地などではスペース不足の問題なども発生したりします。

それで、この墓地は、今後も拡張可能なように設計されています。
(というより、始めに必要最低限分だけ建築され、入居者の増加に合わせて拡張するという形をとっている)

断面が見え、未完なのがよくわかります。




3階建ての建物の最上階。
両脇に棺の納められている、回廊状のスペースがずっと続きます。



棺の納められているブロックの切れ目には、アルド・ロッシお決まりの正方形の窓。





これは、平面図のちょうど真ん中に位置する納骨堂。


内部。外見とはうってかわって、ハイテクな感じです。


このひとつひとつに骨壷が入ります。
ここには、外国人や無縁仏、棺を入れるスペースを買うことのできない貧困者が埋葬されているようでした。




この中庭は現時点では2方が空いていますが、拡張が完了すれば閉じられた長方形のスペースになるはずです。

この場所を訪れたのは2年前のある初夏の日で、
あたたかい日差しの中、風にゆれながら咲き誇る花で溢れるこの中庭には圧倒的な平和がありました。

正直言うと、アルド・ロッシの建築物はなんだか素っ気無くて、苦手だなと思っていたのですが、この墓地を見てから、彼の建築物が”詩的”だと言うことを理解できたような気がします。






最後に。
お参りの際にお墓を掃除するための水を運ぶため(?)のペットボトル置き場。

はじめからこの様にペットボトルを置くように設計されたものなのか、
それとも別の用途でつくられたものがこう使われるようになったものを改良した結果なのかが気になります。

015 Il palazzo

 鹿児島をおととい出発し、現在イタリア人の友人達と国内観光中、昨日は博多泊でした。

博多と言えば、イタリア人建築家の巨匠アルド・ロッシ (Aldo Rossi) の設計した、イル・パラッツォ (Il palazzo) がある、ということで見学に行ってきました。

竣工は1989年ですが、2009年にリニューアルされたそうです。


ファサード。
この繰り返された柱と梁が、なんだかルッカやピサの教会のファサードを思い出させます。
トラバーチン (travertino) と呼ばれる大理石で覆われています。



エントランス。

正面から向かって右側の入り口。奥には店舗。

歩道の舗装もイタリアでよく見られるような石のパターン。

1階部分両脇の詳細。
なぜ、サッシの色は青なんでしょうね?


右サイドから、川方向を臨む。

一部白い大理石が使われている部分があったけれど、
継ぎ目に水がしみ込んでいるようでした。
やっぱり日本の気候にはあわないのかも。

レセプションやバーをつなぐ廊下。
奥には鏡。
ホテルの内装はパブリックスペースは内田繁が担当。

ホテルの四隅に設けられたバーは、アルド・ロッシ、倉股史朗、ガエターノ・ペッシェ、エットーレ・ソットサスがそれぞれ担当したそうです。(wikipedia)




外見はあまりぱっとしないのですが、さすがバブリ時代の建築、重くて贅沢感のある内装の雰囲気はとても良かったです。

次回博多に来るときは、一泊だけでもここに泊まってみたいと思いました。

福岡には、もうひとつアルド・ロッシの設計したホテルがあります。
場所は門司港で、その名も門司港ホテル。
今回は時間がなかったので、次回帰国する時に行ってみようかと思います。






<<back|<123>|next>>
pagetop